【体験談】原因不明の体調不良|起立性調節障害発症から社会復帰までの15年

検査では「異常なし」と言われても、体は確かにしんどい。
周りに理解されない、日によって異なる症状を自分でもうまく説明できない。
そんな“原因不明の体調不良”に、小学6年生から悩まされてきました。
最初は、風邪のあとに残っためまいやだるさ。気づけば、朝起き上がれない日が続き、動悸や過呼吸が頻発するように。
医師の診断は、起立性調節障害。
それから15年近く、不調は良くなったり悪くなったりを繰り返し、学校・仕事・人間関係のすべてに影響していきました。
この記事では、私がこの体調不良をどう受け止め、どんな道のりを経て、社会復帰に至ったのかを体験談としてお話しします。
同じように「どこに相談すればいいのかわからない」「ひとりで苦しんでいる」方に届くことを願って。
「こういう人もいるんだ」と、少しでも安心材料になれば嬉しいです。
不調の始まり—小6、運動会後に「起立性調節障害」と診断

- 風邪後に朝のしんどさ・首コリ・過呼吸が出始める
- クリニックで起立性調節障害と診断
- 当時の収縮期血圧は80台。投薬で様子を見る
- 秋〜冬にかけて一時的に回復
朝のしんどさ・首コリ・過呼吸
1999年、春。小学校生活最後の運動会が終わって、間もなくのことでした。
風邪をひいて数日休んだあとはすっかり元気になったと思っていたのに、ある日突然、体に異変が起き始めたのです。
最初に感じたのは、朝起き上がることのしんどさ。
そのうち、めまいや強い倦怠感、動悸、吐き気など、言葉では説明しきれない不調に次々と襲われるようになりました。
中でも私を苦しめたのが「首のコリ」と「過呼吸」です。突然、首が締まって息ができなくなるような感覚に襲われ、血の気が引いて吐き気がし、目を開けていることさえ辛くなります。
次第に「また具合が悪くなったらどうしよう」「吐いたらどうしよう」という恐怖がつきまとうようになりました。
起立性調節障害とは
近所の小児クリニックでは「起立性調節障害」と診断されました。
自律神経のバランスが乱れ、血圧や脈拍の調整がうまくいかなくなることで、立ちくらみや疲れやすさ、動悸などの症状が現れる疾患です。
特に思春期に多く、朝がつらい・午前中に調子が悪いといった傾向が見られます。
起立性調節障害(Orthostatic Dysregulation:OD)は、立ち上がった時に頭痛、めまい、倦怠感などの症状がでる病気で、血圧や心拍数など循環器系の自律神経の調節に不調をきたすことが原因になります。思春期に発症しやすく、午前に症状が強いため、学校生活に支障をきたすことがあります。重症例では不登校やひきこもりになってしまい、その後の社会復帰にも大きな支障をきたすことがあります。
出典:一般社団法人日本小児心身医学会(最終閲覧:2025年8月27日)
当時、測定した上の血圧(収縮期血圧)は80台でした。朝の不調もあったため、処方された薬を飲みながらしばらく様子を見ることに。
その後、秋から冬へと季節が移る頃には症状が少しずつ落ち着き、学校にも普通に通えるようになっていきました。
当時はまだ知らなかったのです。この不調が、その後十数年にわたって私の人生に大きく影響を及ぼすとは。
中学〜高校:体調不良が徐々に悪化していく

- 首コリと過呼吸が持続し、不安発作が増加
- 高校は電車通学が壁となり、通信制へ転校
- 起立性調節障害専門クリニックに通院
- 薬の副作用と心ない言葉で消耗し、国立小児病院へ転院
中学:不安発作と学校生活
中学生になると、最初のうちは落ち着いていた体調が、学年が上がるごとに再び不安定になっていきました。
つらいのはやはり、首のコリと、過呼吸。首のコリが強くなって吐き気が出てきたと思ったら、突然強い不安に襲われ、呼吸が浅くなり、心臓がバクバクする。
この頃には、「また具合が悪くなったらどうしよう」「みんなの前で急に吐いたらどうしよう」という恐怖が常に頭を支配していました。
特に診断されたわけではありませんでしたが、おそらく、広場恐怖症の状態だったのではないかと思います。
広場恐怖症とは、強い不安に襲われたときにすぐに逃げられない、または助けが得られそうにない状況や場所(例えば、人混みやショッピングモールの中、車の運転中)にいることに恐怖や不安を抱く状態です。
多くの場合、そのような状況や場所を避けたり、多大な苦痛を感じながら耐えたりします。
出典:MSDマニュアル家庭版「広場恐怖症」(最終閲覧:2025年8月27日)
それでも私は、体調と付き合いながらも「普通の学生生活を送りたい」と強く思っていました。
実際、休みがちながらも演劇部で部長を務めたり、塾に通って第一志望の高校に合格したりと、充実した時間を過ごせていたのです。
高校:電車通学の壁と転校
希望を胸に入学したものの、高校生活は思った以上に厳しく。
朝の満員電車に毎日乗ることに耐えられず、次第に欠席が増加。
入学からわずか1学期で出席日数が足りなくなり、留年が決定。その後、通信制高校へと転校することになりました。
転校後、高校2年の間はほとんど通学できず、レポートと放送視聴で単位を取得する日々。高校3年になる頃には少しずつ登校できるようになり、「このまま卒業まで頑張りたい」という気持ちが芽生え始めました。
通院と薬について
高校入学後は、有名な起立性調節障害専門のクリニックにも通っていました。
しかし、出された薬の副作用に悩まされたり、「肩コリは体操で治るよ」といった医師のひと言に傷ついたり。最終的には別の国立小児病院への転院を決めました。
当時処方されていた薬の一例は、以下のとおりです。
- クリニック:ミオナール、ポリフル、デプロメール
- 病院:ソラナックス、ドグマチール
当時は、薬の副作用か、生理が1ヶ月に2回来ることも。
不安に思いながらも、「薬が効いている証拠」と言い聞かせ、「今より少しでもマシになりたい」と願っていました。
大学~社会人:「いつまで続くの?」—検査は異常なし、それでもつらい日々

- 通信制大学を選択し、5年半で卒業
- 体調は波を繰り返し、薬を飲み忘れると体調悪化
- 検査は「異常なし」だが症状は変わらない
- 大学時代の収縮期血圧は約100mmHg
- 朝も普通に起きられたため、「起立性調節障害」の診断に疑念
- 仕事中の過呼吸が続き、退職
大学:通信制を選択
高校卒業後は、通信制の大学に進学しました。
当時は、まだオンライン学習が今ほど普及しておらず、「通学せずに卒業できる学校」はかなり限られていたのです。
「元気だったら、こんな学校に行きたい」といった願いもありました。
しかし、それ以上に「通い続けることが無理」。
せっかく第一志望に受かったのに通えなくなった高校時代と、同じ思いは二度としたくありませんでした。
スクーリングやレポート提出をなんとか乗り越え、5年半かけて無事に卒業。在学中も体調は安定せず、「良くなったと思えばぶり返す」の繰り返し。
薬は相変わらず飲んでいて、特に「飲み忘れたとき」に強い不調が出ることが多くなり、不安がさらに強まっていきました。
この頃には、「これは本当に起立性調節障害なのか?」「自律神経失調症?それとも別の病気?」と疑問を持つように。
「いつまで思春期なんだろう」
実際、当時の上の血圧はおおむね100mmHg前後で、朝も普通に起きられていました。
しかし、血液検査や脳のMRIを受けても、結果は「異常なし」です。
「原因が分かれば、もっと心がラクになるのかな」と毎日思っていました。
社会人:就職するも半年で退職
大学卒業後は、ハローワークの支援を受け、小さな会社の営業事務として就職。体調が悪くても、なんとか社会に馴染みたくて必死だったのを覚えています。
けれど、無理をすればするほど、体は悲鳴を上げました。
月に一度は仕事中に過呼吸になり、トイレに駆け込んで、しばらく出られなくなる日々。
人前では取り繕っていても、帰宅後は寝込んでしまうことの繰り返し。
「こんな自分が社会にいる意味はあるのだろうか」
そして2012年5月、私は心身ともに限界を迎え、勤務先を退職。
これが、私にとって初めて「療養に専念する」と決めた瞬間でした。
療養に専念する決断:合わない施術で体調が過去最悪に

- うつ・自律神経失調症専門整体は体に合わず、症状悪化
- 首コリ治療も合わず、体調が過去最悪の状態に
- 受診先が見つからない絶望
うつ・自律神経症状の専門整体
就職からわずか半年での退職。
情けない。体調に振り回される人生を終わらせたい。ちゃんと治したい。
私は、ようやく「今はもう、治療に専念しよう」と思えるようになりました。
ずっと「同級生に遅れたくない」「社会から取り残されたくない」と走り続けてきたけれど、このままでは本当に壊れてしまうと感じたのです。
退職後、最初に通ったのは「うつ・自律神経症状の専門」を掲げた整体院でした。
投薬では治らなかった人にも効果があると聞き、わらにもすがる思いで訪ねたのを覚えています。
けれど、残念ながら私の体には合わなかったようで、施術を受けるたびに調子は悪化。
それまでは外出に不安はあっても一人で出かけられていたのに、次第に一人で電車に乗ることが難しくなっていきました。
首コリ治療で光・音過敏、10キロ減
次に試したのは、「首のコリからくる不調」を改善するという病院の治療。
著書を読んで納得できたこともあり、母に付き添ってもらって通い始めました。
しかし、首に電気を流して筋肉を緩めるというその治療が、私にはまったく合わなかったのです。
そこから体調は、一気に最悪の状態へと転がり落ちました。
- 眩しさで目が開けているのがつらく、音や光に敏感になる
- 外に出るどころか、部屋の中ですら落ち着けない
- 呼吸が浅くなり、食事をするだけで過呼吸を起こす状態
- ほとんど食べられないため、大学卒業時より10キロ痩せる
- 寒くて仕方がなく、危ないとは分かっていてもヒーターを抱えずにいられない
- 立ち上がることができず、トイレに行くのも這って移動する
「主治医に診てもらってください」そういって、母が電話で診察を断られるたび、
「こんなに苦しんでいるのに、どうして誰にも分かってもらえないんだろう」
「この状態が一生続くのかもしれない」
孤独と絶望から、泣いてばかりいました。
転機—ある治療院との出会い

- 口コミで類似症例を見つけ、近所の治療院を受診
- 自然治癒力を引き出す施術で初回から過呼吸が消失
- 体調回復への希望を取り戻す
「まるで私のこと?」見つけた口コミ
毎日をただ耐えるだけのように過ごしていた日々。もう遠くへの外出はできないし、病院やクリニックにも受け入れてもらえない。
ならば、近所の治療院に診てもらうしかありません。
眩しさでスマホの画面を見るのがつらくても、震える手で検索し続けました。
そんな中、目にとまったのはある治療院の口コミ。
書かれていた内容は、まるで私自身の症状をそのまま書き写したかのようでした。
しかも、治療院の場所は自宅から徒歩圏内。がんばれば移動できる距離です。
「まだ、生きることを諦めなくていいかもしれない」
そう思えた瞬間、私の中にほんのわずかに希望が灯りました。
初回の施術で起きた変化
2013年3月、母と一緒にタクシーで、その治療院に向かいました。
行われた施術は、体が本来持っている"自然治癒力"を引き出す手法。
使うのは、ほぼ手だけ。触れ方もとてもやさしくて、今まで受けてきた痛い施術とは違うソフトさに驚きました。
そして何よりも衝撃だったのは、初回の施術を受けたその日から、ずっと悩まされてきた過呼吸が一切出なくなったことです。
あまりの驚きに、半信半疑のまま帰宅しました。
13年後の今に至るまで、過呼吸の発作は一度も起きていません。
リハビリ期:少しずつできることを増やしていく

- 回復はスローペース
- 主治医と協議のうえ減薬し、2013年10月に断薬成功
- 2014年~2015年は外出の練習期間
- 自分の回復力を信じられるようになる
回復を積み重ね、断薬に成功
治療院に通い始めたその日に、過呼吸の発作が出なくなったこと。それは、私にとって何よりの希望でした。
しかし、そこからの道のりは「一気に回復する」ような劇的なものではなく。らせん階段をゆっくりと上がっていくような日々でした。
一時は、体の「元に戻ろうとする機能(ホメオスタシス)」で、目を全く開けられない状態まで悪化。
しかし、時間をかけて徐々に回復し、スマホを見たり、テレビを見たりできるようになったのです。
そんな中、大きな転機となったのが、「薬をやめたこと」。
医師の指示通り薬を飲み続けてきましたが、副作用も大きく、当時は「この不調は自分のものなのか、薬の副作用なのか」、もはや分からない状態でした。
主治医と治療院の先生と相談しながら、慎重に少しずつ減薬。
2013年10月、完全に服薬をやめることができました。(ちなみに、現在も一切薬を飲んでいません。)
外出練習と自分の体への信頼
2014年~2015年は、外出の練習期間。
特に2014年の初めは、長期間の引きこもり生活の影響もあり、風邪をひきまくっていたのを覚えています。外への免疫が、完全に失われていたんでしょうね。
それでも、「風邪は治るものだから大丈夫」と思えるように成長。以前は、具合が悪くなること自体が怖くてたまらなかったのに。
「自分の体への信頼」に気づいたことは、さらなる回復の実感につながりました。
この頃から、「次は何をしてみよう?」と未来を考える時間が少しずつ増えていったのです。
社会復帰への道:短期バイト→在宅アルバイト→資格→就職→結婚

- 2016年、単発・短時間のアルバイトで社会復帰
- 2017年、知人の紹介で在宅中心の事務アルバイト
- 簿記2級・FP2級を取得し、2018年に就職
- 2023年、結婚
バイトへの挑戦:短期~長期在宅
リハビリを重ねて少しずつ体力が戻ってきた頃、私は「外に出ること」にも少しずつ慣れていきました。
ただ、いきなり長時間働くのは不安です。「まずは短期のバイトからやってみよう」と決めました。
2016年、最初に挑戦したのは、通販会社の受電バイトと、Amazonの倉庫での梱包作業。
どちらも単発・短時間での勤務だったため、体への負担が少なく、自信を取り戻すきっかけになりました。
2017年には、知人の紹介で在宅中心の事務アルバイトを開始。
外に出なくてもできる仕事に助けられながら、少しずつ出社を増やし、「社会人としての自分」を取り戻していきました。
この頃から「もう一度、しっかり働けるようになりたい」という気持ちが芽生えてきたのを覚えています。
資格取得から就職・結婚へ
簿記2級とFP(ファイナンシャルプランナー)2級の資格取得に挑戦。体調と相談しながら無理のないペースで勉強を続け、どちらも合格。この経験は、自信と希望を強くしてくれました。
資格を活かし、2018年にはマンション管理会社で紹介予定派遣としての勤務が決定。
体調の波はゼロではなかったですが、週5日1日8時間勤務をこなせるようになり、3ヶ月後には正社員として採用していただけました。
今は転居に伴い退職していますが、勤務を通して大きな自信をくださったことに、とても感謝しています。
そして2023年、私は結婚しました。
かつて、寝たきりで「一生このままかもしれない」と泣いてばかりいた私が、穏やかな日常を送り、大切な人と暮らしている。
当時は想像できなかった"未来"を今、生きられています。
同じ悩みを抱えるあなたへ

- 「自分の体の声を信じること」の重要性
- 家族との関係について
- 今日できる小さな一歩(体調記録・自分に合った病院や治療院探し)を実行
自分の体の声を信じる
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
もしかしたら今、あなたも「原因がわからない体調不良」に悩み、不安な日々を送っているかもしれませんね。
病院の検査では「異常なし」と言われ、周りには理解してもらえず、「もうどうしたらいいのか分からない」と悩んでいるかもしれません。
でも、そんなあなたに伝えたいのです。
「自分の体の声を信じてあげて」と。
私も、長い間そうでした。
「甘えてるだけ」「気のせい」と言われるたびに、自分の感覚が信じられなくなって。
「死ぬまでこのままなのかな」「むしろ、このまま死んでしまったほうがラクかな」と思ったことは、一度や二度ではありません。
それでも、最終的に「自分に合う施術と出会わせてくれたのは、自分の体」でした。
もし、この記事の中に一つでも「自分と似ている」と感じたところがあったら、あなたにも必ず光が差し込む瞬間が来ると信じています。
家族との関係について
ご自身ではなく、家族が似たような状況の方もいることでしょう。
特に、起立性調節障害の発症が不調のきっかけだった場合、「母親のせいなんじゃないか」「育て方の影響かも」と思いつめてしまうかもしれません。
私も、自身の不調を背景に家族全体が険悪なムードになった時期もあり、つらかったです。
学校の薦めで受けたカウンセリングが裏目に出て、家族がそれぞれ傷つくこともたくさんありました。(カウンセリングを否定する意図はありません。カウンセラーの力量や、相性がとても重要だと考えています。)
でも今は、「誰が悪いというよりも、誰も悪くない中で、ただ苦しい状態が続いていただけだった」と感じています。
家族仲も、当時の冷え切った関係が嘘みたいに、今は良好です。
今日できる小さな一歩
私はこのサイトを通じて、過去の自分のように苦しんでいる誰かに、ほんの少しでも寄り添えたらと思っています。
もしよければ、他の記事も覗いてみてください。
体調記録の書き方や、病院・治療院の探し方なども、私の経験をもとに書いています。
あなたの明日が、ほんの少しでも穏やかでありますように。
心から願っています。
まとめ

この記事は、私が小学6年生で起立性調節障害と診断されてから、社会復帰に至るまでの体験談を綴ったものです。
不調のきっかけは風邪からの起立性調節障害でしたが、徐々に悪化し、学校生活・就職・人間関係…あらゆる場面でつまずきながら、必死に生きてきました。
検査では「異常なし」と言われながらも確かに体はつらくて、何度も「どうして私だけ?」と涙を流してきました。
それでも、
- 支えてくれる人がいたこと
- 「諦めたくない」と思ったこと
- 体の自然治癒力
そのすべてが、私をここまで連れてきてくれたのだと思います。
この体験談は、あくまで私自身の個人的な経験です。特定の治療法や施術をおすすめする意図はなく、治療の効果を保証するものではありません。
また、通院・服薬・治療の選択については、必ずご自身の判断と主治医の指示のもとで行ってください。
ここまで読んでくださったあなたに、心から感謝を込めて。少しずつでも穏やかな日々が訪れることを、心の底から願っています。